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美容整形 TOP名医をさがせ!クローズアップドクター 一覧松山 光春 院長《城本クリニック 金沢院》

名医をさがせ!クローズアップドクター
城本クリニック 金沢院 松山 光春 院長

Close up doctor 患者さんと一緒にベストを探っていく 院長 松山 光春

1984年大阪市立大学医学部卒業
1984年大阪市立大学医学部付属病院
1993年大阪市立総合医療センター外科副部長
2004年城東中央病院院長
2006年藤井寺市民病院外科部長
2008年城本クリニック

  • インタビュー
  • ヒストリー
  • プロフィール
松山 光春院長の生い立ち・経歴
松山 光春院長の経緯をたどります。

暗い雰囲気が嫌いで、場を和ませるよう明るく振舞っていました。

幼少期はどのように過ごされていましたか?

大阪市で生まれ、大阪市で育ちました。金沢院開院とともに金沢市に移住しました。長男と長女を大阪に残し、一番下の息子と妻の三人で金沢に移住しました。人生の最大の転換でした。 いたずら好きな性格でした。暗い雰囲気が嫌いで、場を和ませるよう明るく振舞っていました。別の一面では、一人っきりでこもって何かに熱中、没頭していました。

小学生のころ、ビリヤード、ボーリング、アイススケート、ローラースケートなどに一時的に熱中しました。年の離れた兄や姉の洋楽のレコードを、よく一人で聞いていました。一人の空想の世界に入っていたように思います。

小学1年生ぐらいの頃です。家族で川(摂津峡というところです)に遊びに行きました。僕と3才年上の兄の二人で誰もいないところまで川を登っていきました。そこで僕は川にはまり、流れにもまれ川底でもがいていました。一瞬、死ぬのかなあと思いましたが、恐怖は感じませんでした。なぜか川から上がることができました。兄は、僕がいなくなってしまったので、必死で探したそうです。

中学・高校時代はどのように過ごされていましたか?

大阪市で生まれ、大阪市で育ちました。小中は地元の学校で、高校、大学も大阪市内の学校でした。 小学生の時、同級生のお家に卓球台があり、よく卓球で遊ばせていただきました。それで中学校で卓球部に入りました。下手でしたが、楽しく、またそれなりに厳しく練習しました。部長先生からの指示でキャプテンになりましたが、自分はいい加減なものでした。それでも、今となってはいい経験をさせていただいたと思っています。

文武両道の校風のごとく運動部(卓球部)と勉学に勤しみました。こういうと優等生っぽく聞こえますが、思春期の男の子なりのいろんなことをしました。卓球部ではまたキャプテンを務めました。伝統のある名門進学校でしたので、OB会もしっかりしていて、高校生でありながら少し大人の世界を垣間見ることができました。苦楽を共にした卓球部の同級生たちとは卒業40年近くたちますが、今でも年に1回1泊で遊びに行きます。

レコード画像

バスケット画像

大学時代についてお聞かせください。

高校時代の反動で、初めの4年間は遊び呆けていました。兄のイタ車を乗り回し、授業もよくサボりました。家庭教師と、兄の経営する居酒屋でアルバイトをしました。生きのいい店員さんでした。スポーツも高校時代の反動で、一番小さい球を使う卓球から一番大きなボールを使うバスケットボール部に入りました。麻雀もよくしました。勝負は医者になってからと決めてかかっていました。妻と出会い恋愛したのは大学3年生の時でした。もう36年間つきあっていることになります。

美容外科医を知った、目指したきっかけを教えてください。

城本クリニックの創業者の城本先生が、研修医の同級生でした。彼は当初から美容外科医を目指していました。外科で研修をして外科の基本を身に着け、次に著名な美容外科医のもとで修練を積み、そして大阪で城本クリニックを開業しました。ちゃんとステップアップしての開業でしたので、素晴らしいと思いました。また、城本クリニック総院長の森上先生とは同じ医局(同門)の同級生です。ですから医師、外科医になった時から、美容外科を知ることになりました。

印象に残っているエピソード、ターニングポイントを教えてください

一般外科医・消化器外科医として大学、基幹公立病院で臨床に邁進していましたが、44才の時に医局人事で大学関連の民間病院の病院長に就任させていただきました。外科医から経営者の立場にかわりました。病院の最高責任者として全体をとりまとめるのです。仕事内容は多岐にわたり、責任も重く、戸惑いの日々を過ごし、消耗していきました。病院長になったことで、病院経営、医療行政に関して勉強になり、医師として視野が広がったように思います。

民間病院の病院長の仕事で消耗し、教授に外科医のポストに変えていただくようお願いしました。46才の時に、新たに建て替え予定である公立市民病院の外科部長に転勤させていただきました。外科医として仕事でき、また新病院構想を練っていくという、夢のある大変やりがいのある仕事でした。しかし、なんと市長選挙で現職がやぶれ、新病院建て替え反対の新市長が誕生してしまったのです。病院の建て替えはなくなり、大きな挫折感を味わいました。このままの仕事は続けることができない。辞職し、自分で道をきりひらいていくと決意しました。

外科医はやめたくない。でも今までのような病院勤務の外科医では納得できない。そこで今までとまったく違う外科医、すなわち美容外科医を目指そうと考えました。城本先生、森上先生に相談し、実際の美容外科の診療にかかわらせていただきました。手術の結果が、目に見えてわかり、患者さんがよろこんでいるさまを見て、美容外科医に転身することを決意しました。また、勉強させていただいた城本クリニックが、まじめで誠実な医療を提供しており、ぜひ城本クリニックで仕事させてくださいとお願いし、48才の時に美容外科医に転身、城本クリニックに就職しました。しばらくして金沢院を開院しました。当初は大阪から通勤していたのですが、それでは十分な診療ができない、時間外の対応ができないので、長男と長女を大阪に残して、二男と妻の三人で金沢に移住しました。美容外科に転身したこと、大阪から金沢に移住したことで、人生が全く変わりました。人生最大のターニングポイントでした。

今後の目標を教えてください。

現在、城本クリニック金沢院と富山院で仕事させていただいています。城本クリニックがこれからも患者さんから、そしてひろく国民から信頼される美容外科クリニックなるよう、今後10年、20年と誠実に努力し続けていきたいと思います。

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